九州旅行で、観光スポットのひとつに選ぶ方も多い「太宰府天満宮」。
「学問の神様」として有名で、受験や学業成就を願って訪れる人も多い神社です。
でも、「菅原道真公って、そもそもどんな人?」「どうして太宰府に祀られているの?」「境内に牛の像があるのはなぜ?」と気になりますよね。
この記事では、太宰府天満宮がなぜ有名なのか、菅原道真公がどんな人物だったのか、太宰府天満宮との関係についてわかりやすくまとめました。
これから太宰府天満宮を訪れる際の参考にしてみてください。
※歴史や由緒については、太宰府天満宮公式サイトなどを参考にしています。
- 太宰府天満宮がなぜ有名なのか知りたい人
- 菅原道真公がどんな人物なのか知りたい人
- 菅原道真公と太宰府天満宮の関係を知りたい人
- 太宰府天満宮の牛の像が気になる人
- 太宰府天満宮の由緒を知ってから訪れたい人
※本記事にはPRが含まれます。
太宰府天満宮はなぜ有名?

太宰府天満宮は、菅原道真公(すがわらのみちざねこう)をお祀りする神社です。
道真公をお祀りする天満宮・天神社は全国に数多くありますが、その総本宮が太宰府天満宮です。
道真公は「学問・文化芸術の神様」として知られ、特に受験シーズンには、合格祈願に訪れる方も多いのではないでしょうか。
では、菅原道真公とは、いったいどのような人物だったのでしょう。
菅原道真公ってどんな人?
菅原道真公が生きた時代は、平安時代の頃。
幼い頃から学問に励み、優れた才能を発揮した道真公は、やがて学者としての地位を高め、政治の世界でも重要な役割を担うようになりました。
そんな道真公の功績のひとつとして知られているのが、遣唐使の停止を朝廷に提言したことです。

簡単に言うと、頭が良くて、政治の世界でも活躍した人ね。
遣唐使の停止を提言した菅原道真公
遣唐使とは、当時の中国・唐へ派遣された使節団のこと。

日本はその当時、唐から進んだ知識(政治制度や仏教、学問、文化、技術など)を、遣唐使を通じて取り入れてきました。
日本史の教科書でもおなじみの最澄や空海も、遣唐使船で唐へ渡り、現地で仏教を学んで日本へ持ち帰りました。
最澄や空海が唐へ渡った約90年後の894年、菅原道真公も遣唐大使に任命されています。
しかし当時の唐では内乱などが続き、国の情勢が不安定になっていました。また、遣唐使船で海を渡ることには、遭難や漂流など大きな危険も伴います。
こうした状況を踏まえ、遣唐使の派遣を停止するよう朝廷に提言したのが道真公です。
その年の遣唐使は派遣されず、道真公自身も唐へ渡ることはありませんでした。
その後、遣唐使が再開されることはなく、唐は907年に滅亡しています。

日本の政治にも大きな影響を与えた人物だったのですね。
なぜ菅原道真公は太宰府に祀られているの?
学者・政治家として活躍し、高い地位にまで上り詰めた道真公でしたが、それを妬んだ藤原時平の策略によって言われのない罪で京から大宰府へ左遷されてしまいます。
大宰府での暮らしは衣食住にも事欠く乏しい生活だったそうですが、そんな環境でも国の平安を祈り続けたと伝えられています。
※古代の役所を指す場合は「大宰府」、現在の地名や太宰府天満宮には「太宰府」と表記しています。

藤原時平、ひどい……。
道真公と牛の関係

太宰府天満宮の境内には、「御神牛(ごしんぎゅう)」と呼ばれる牛の像があります。

どうして境内に牛の像があるのかな?
59歳でその生涯を終えた道真公。
亡くなった道真公のご遺骸を牛車に乗せて運んでいたところ、牛が突然その場に伏して、動かなくなったそうです。


ちなみに道真公は、乙丑(きのとうし)の年生まれ。そして、亡くなった日も丑の日だったそうな……。
「これは道真公の思し召しであろう」と考えた門弟の味酒安行(うまさけのやすゆき)は、その地に道真公を埋葬。
その後、現在の御本殿がある場所に、道真公をお祀りする祠廟(しびょう)が造営されたと伝えられています。
※祠廟(しびょう):亡くなった人の御霊をお祀りする建物のこと。
つまり太宰府天満宮は、道真公を神様としてお祀りしているだけでなく、道真公が埋葬された場所でもあるのです。


こんな感じ?
こうした由緒を知ると、御本殿に手を合わせるときの気持ちも少し変わってきますよね。
まとめ|太宰府天満宮は背景を知ってから訪れるともっと面白い
「学問の神様」として有名な太宰府天満宮。
今回は、「太宰府天満宮ってなぜ有名?」「太宰府天満宮に祀られている菅原道真公ってどんな人?」という疑問についてまとめました。
こうした菅原道真公の生涯を知ってから訪れると、太宰府天満宮で過ごす時間も、さらに充実したものになりますよね。
太宰府天満宮を訪れる際の参考になればうれしいです。
参考リンク
公式・参考サイト

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